コロンビアのあまり知られていない有名人・著名人、市内の道路や建築物、組織などに冠されている人達を調べていきます。是非、コロンビアの人々に興味を持ってみてください。
Cristobal Colon | 新大陸を発見した冒険家 |
Simon Bolivar | 南米解放の父 |
Francisco Santander | 解放者ボリーバルの右腕、2,000ペソ札の肖像画 |
Agustin Codazzi | 南米の地形図を作製したイタリア傭兵 |
Jose Celestino Mutis | 南米の植物を研究したスペイン人 |
Juan Valdez | ご存知、コロンビアコーヒーのイメージキャラ |
Jorge Elicer Gaitan | コロンビア幻の大統領,1,000ペソ札の肖像画 |
Jorge Tadeo Lozano | 学者 |
Luiz Angel Arango | 不明 |
Maria Sanz | |
Policarpa Salvarrieta | 10,000ペソ札の肖像画 |
Fernando Botero | コロンビア出身芸術家 |
Garcia Marquez | 『100年の孤独』ノーベル文学賞受賞者 |
Jorge Issac | 『マリア』を書いた1900年代の作家、50,000ペソ札の肖像画 |
Julio Garavito | コロンビアの天文学者、20,000ペソ札の肖像画 |
Shakira | 日本でも有名なコロンビア人歌手 |
Juanes | 日本でも有名なコロンビア人歌手 |
Juan Pablo Montoya | 元F1ドライバー |
Carlos Vives | Vallenato歌手、俳優 |
国名、Colombiaは大航海時代の冒険者コロンブスから来ています。 Cristobal Colonは1451年頃にイタリアに生まれ、スペイン王室の援助を受け新大陸発見の航海にでました。
Simon Bolivarは南米独立の父と呼ばれている。Bolivia(ボリビア)の国名やベネズエラの通過Bolivar等に名前が残っている。また、コロンビア国内を旅行すると都市の中心部にある公園はBolivar公園と呼ばれ、銅像を見ることができる。
南米を旅すると、広場や通り等いたる所にこの偉大な英雄の名前が付けられているのに気が付く。
軍人かつ政治家であった彼は、ベネズエラ・コロンビア(現パナマ領を含む)・エクアドル・ペルーのスペインからの解放者であり、ボリビアの建国者である。
彼は1783年、カラカスの裕福な貴族の家に生まれた.両親を早くに無くしたが乳母のイポンテ、家庭教師のシモン・ロドリゲスの深い愛情によって育てられた。15歳の時に軍に入り少尉となる。
その後、学問の為にスペインにわたり、後に妻となるマリア・テレサ・ロドリゲスと出会う. 1802年にフランスへ渡り啓蒙思想に心酔。その後、再びスペインに戻りマリア・テレサと結婚する.しかし、幸せは長く続かなかった。
1年後に最愛の妻が死亡。本人の告白によればこの妻は死が転機となり、祖国解放の独立運動に身を投げることになったという。
1806年、ミランダ将軍のベネズエラ独立運動が失敗しかけているときにベネズエラに戻る。この時より、シモン・ボリバルを核とする運動が開始されることとなった.一度は国外追放になったものの、1811年7月5日にベネズエラの独立宣言が行われ、これより中南米の独立戦争が本格化していった。しかし、諸州の戦いで解放軍はスペイン軍に敗れ、一時キューバへ避難することを余儀なくされる。
ボリバルはその後コロンビアに赴き、自ら剣を取りヌエバ・グラナダ独立政府を築いた。この間ベネズエラはまだスペインの手中にあったが、 1813年ヌエバ・グラナダよりベネズエラ侵攻を開始し、同年8月カラカスに入り、ベネズエラ共和国復活を宣言し、大統領に任じられた。
1815年、スペインはヌエバ・グラナダ鎮圧の為軍隊を派遣、ボリバルの軍隊は敗れ、暫くの間ハイチ等で身を潜めて計画を練り直すことになる。
1819年、再度コロンビアに赴いたボリバルは8月のボヤカの戦いでスペイン軍を破り、同年12月スペイン軍との講和後自らの提唱でエクアドル、コロンビア、ベネズエラが合併して出来たグラン・コロンビア共和国を樹立した。
ベネズエラに引き返した彼は、1821年カラボボの戦いで勝利を収めベネズエラの自由を決定的なものにした。翌年ボンボナの戦いにも勝利。一方、ボリバルの部下のスクレも1822年エクアドルで自由を勝ち取った。
その後、ボリバルはペルーを独立に導いたパンパの戦い、アヤクーチョの戦いでも勝利した。しかし後年彼は部下達の裏切りに合う事になる. 広大なグラン・コロンビアは各国の政治家の利害対立の場と化してしまった。
この頃から胸の病いかかり、結局失意の内にコロンビアのサンタ・マルタでシモン・ボリバルは1830年に他界した.享年47歳.彼の遺骸は12年後の 1842年に故郷のベネズエラに戻ることになり、現在国立霊廟(パンテオン・ナシオナル)に眠っている。
Agustin Codazzi
Bogota市北部にある「Museo del Chico」には、最古のBogota市の地図が展示されている。
それを作ったのがイタリア人であるAgustin Codazziだ。
この国の国土地理院は彼の名前が冠されInstituto Geografico de Agustin Codazzi(通称;IGAC)と命名されている。
こちらに来てBogota市内地図、コロンビア地図、ルート・マップなどを購入したが全てIGACが作成したものだ。
どんな人だったのか興味を持ち調べてみた。
1793年7月12日にイタリアのRomanaで生まれ、12歳で軍隊に志願している。
本人は旅行が好きで、軍隊に入れば各地に旅ができると考えていたようだ。
ヨーロッパ戦線の拡大に伴い、ナポレオン軍の一員となりスペイン、ドイツ、折さ名度を転戦し1816年23歳のときにNueva Granadaに渡った。
Nuava Granadaは現在のColombia、Venezuela,Ecuador,Panamaになる。
その後の経緯が良くわからないが、Colombia、Venezuelaで地形図作りに取り組んだようだ。
冒険者、カリブの海賊、Jose Antonio Paez将軍の右腕、Nueva Granadaの傭兵などとの評もある。
どちらにしても、日本では無名の人であるが、Colombia,Venezuelaにおいてはその功績が大きい。
ColombiaのCesar県にはAgustin Codazzi市がある。
1859年に彼はVenezuela国境に近いこの地で享年66歳で亡くなった。
IGACの一角にAgustin Codazzi博物館があり、彼の作成した地図などが展示されている。
Agustin Codazziの半生
Agustin Codazziの半生
Agustin Codazzi市
Jose Celestino Mutis(1732-1808)の名前は、Bogota市植物園についている名前です。興味を持って調べてみたら、彼はスペイン南部のCadizに生まれました。Sevilla、Madridを経て南米のNueva Granada(今のコロンビア、エクアドル、ヴェネズエラ、パナマ)に渡りました。
Juan Valdezは、コロンビア・コーヒーのイメージキャラクターで架空の人物です。いま、コロンビア・全国コーヒー生産者連盟(FNC)が世界的規模で展開しているコーヒー・チェーン店の名前も"Juan Valdez"です。http://www.cafedecolombia.com/
アンデス山脈を模した三角形の図柄の中にロバとソンブレロをかぶったおじさんのマークを見たことがある人も多いのではないでしょうか。以外に歴史は古く、1959年からこのトレードマークが利用されています。
全国50万人以上のコーヒー生産者を擬人化しシンボル・キャラクターを作ったようです。イメージキャラなのに実は実在のValdezおじさんがいます。今は2代目のようでCarlos Castanedaさんが担当しています。初代は1969年に就任したCarlos Sanchezさん。先代のSanchezさんは70歳で引退をしてしまいました。2代目は丁度、私がコロンビアに再赴任した2006年に選ばれ、バルデス叔父さんが凱旋した地元ではお祭り騒ぎでした。この、バルデス叔父さんはコロンビア・コーヒーのプロモーションのために、ロバを連れて世界中を飛び回り、コロンビア・コーヒーを売り込んでいます。
今ではコーヒーショップでグッズも売られており、ますます有名になっていく感じ。
2006年10月には、日本にも訪問し活動したようです。
参考資料:FNC資料
Jorge Elicer Gaitanの名は、現在の1,000ペソ札に肖像が使われている。また、コロンビアの首都ボゴタにも刻まれている。
Carrera 7 に彼の名を冠した劇場がある。またCarrera 7とCalle13の角にはメモリアル・プレートが掲げられている。彼は自由主義の波に影響された当時のコロンビアで伝統的な支配階層からの脱却と民衆による政治の要求をとき大統領当選は確実とされていた。
しかし、1948年に4月9日、Bogota市内の路上でRosa Sierraという人物に暗殺されてしまった。彼が亡くなった場所に前述のメモリアル・プレートは掲げられている。犯人は怒った群集にリンチに掛けられその場で殺されてしまった。犯人の動機や背後関係は結局謎のままだ。
このGaitan暗殺後に首都Bogotaでは大暴動が発生。首都の中心部や市電が焼き討ちにされ、また、多くの市民が死亡した。
当時、ラテンアメリカ諸国は米国の属国と考えられ、左翼政権が生まれそうになると米国政府は政治資金や武力介入でこれらを阻止するのが通例だった。果たして、真相は。いつか解明される日が訪れるのだろうか。
参考資料:El Tiempo紙
Jorge Tadeo Lozanoの名は、Universidad de Bogota Jorge Tadeo Lozanoに冠されている。
興味を持って調べてみたら、Bogota市植物園の名前になっているJose Celestino Mutisと共に活躍した学者らしい。
引き続き、調べてみます。
Luiz Angel Arangoの名は、コロンビア中央銀行が運営する図書館・劇場に名前が付いている。追ってどんな人だったのか調べてみます。
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