カルタヘナ(正式名称:カルタヘナ・デ・インディアス)はコロンビア共和国北部、カリブ海沿岸に位置するボリーバル県の首府であり、当国で最も観光客の多い観光都市である。
スペイン植民地時代の様々な歴史的建築物が数多く現存することから、1985年にユネスコより『世界遺産』の指定を受けた。日本のテレビ局数社も取材に訪れている。
カルタヘナの港、要塞と建造物群
世界遺産:カルタヘナの港、要塞と建造物軍
名称 カルタヘナの港、要塞と建造物群
名称(英語) Port, Fortresses and Group of Monuments, Cartagena
登録種別 文化遺産
登録年 1984年
カルタヘナ市は城壁で囲まれた旧市街を中心としてカリブ海に突出した岬であり、ほぼ四方を海に囲まれた形になっている。城壁内には国際会議が行われるコンベンションセンターや植民地時代の建物をそのまま使ったホテル、レストラン、バーなどが数多くあり昔のたたずまいを今も残している。
城壁から南へのびる岬がボカグランデと呼ばれる地域で海岸はいつも観光客で賑わっている。岬の先端にはヒルトンホテルやホテル・カリベ等の有名ホテルが並び観光客向けのレストランや土産物屋が多数ある。
城壁の南の湾はコロンビアの貿易を担っている当国きっての国際荷揚港である。
カルタヘナと大陸の付け根である東側にはポパ山がそびえ頂上には修道院がありカルタヘナ市を一望にできる。ポパ山周辺はいわゆる貧民地域が並ぶので徒歩での行動は控えるようにしたい。
カルタヘナ市はスペインによる征服時代以前はカリブ語(KARIB)を話す戦闘的なカラマリ族(KARAMARI)というインディオの一族が住人であり、カラマール(CALAMAR:イカという意味)と呼ばれていた。
カラマールは1500年スペイン人ロドリゴ・デ・バスティダス(RODRIGO DE BASTIDAS)により発見された。カラマリ族との長い戦闘の末、1533年1月20日にようやく現在のカルタヘナ市が同じくスペイン人のペドロ・デ・エレディア(PEDRO DE HEREDIA)により建設された。同市の建設が遅れた理由として飲料水の不足と好戦的なカラマリ族が毒矢を用いて強く抵抗したこと等が大きな要因とされている。
その後、スペイン人がインカ帝国を滅ぼして以来、スペイン帝国の最も重要な投錨地として発達し、金をはじめとするアメリカ大陸の産物の輸出港となった。かくしてカルタヘナは17世紀から18世紀にかけて繁栄の絶頂期を迎えた。現存する遺跡の城塞教会、植民地街等はこの時代の物である。
この富む町に目を付けたカリブの海賊達(仏、英)は同港からスペインへの輸出を妨害し略奪に走った。しかし、カルタヘナは海賊の攻撃に良く耐え、スペイン帝国フェリペ二世の命令の元、アフリカ人奴隷達の労働力により難攻不落の港の建設に着手した。この城壁は1741年に英国より送られた大船団に対し大きな効力を発揮しこれを防いだ。
1811年11月11日、海賊の横行やスペイン人支配に我慢しきれなくなったカルタヘナの住民はスペイン本国からの独立を宣言するに至った。これに対しスペイン本国はフェルナンド七世のもとカルタヘナ再征服のため、1815年パブロ・モリージョ(PABLO MORILLO)を同地に送った。モリージョは同市を121日間に渡り包囲したのみならず多大の死傷者を出させたが、南米全体のスペイン本国からの独立獲得戦争の動きに抗しきれず、1821年コロンビアの大英雄シモン・ボリーバル(SIMON BOLIVAR)のスペイン人征服者の国外追放によりこの長い戦いも完全終結しカルタヘナも完全な独立を獲得した。
こうした数々のエピソードはカルタヘナに『英雄都市(CIUDAD HEROICA)』としての称号を与えることとなった。
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