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職場のメルマがに書いた記事の転載です。
南米写真

中南米の写真はこちらから。

コロンビアの食べ物

コロンビアのお花

Bogotaの風景

中南米との出会い

祖父母と中米パナマ

 昭和2年(1927年)静岡県沼津市に我入道という漁師町から、夢を求めて中米のパナマに出稼ぎに向かった31歳の漁師がいました。それが私の祖父。新一です。
渡航は船で、横浜港を出航しハワイ経由で25日間掛かったらしい。当時まだ海外渡航が珍しかった世代の祖母が私が小さいころにパナマ、ハワイ、バンクーバーなどの話を沢山聞かせてくれた。それは、『宝島』や『トム・ソーヤーの冒険』を読むように私の心は躍っていた。
 日本で漁業を営んでいた彼は、パナマでも漁業に従事し日本の漁業技術を用いて、当時開通したばかりのパナマ運河を航行する船や運河を管理する米国軍関係者等へ魚を販売していたようだ。
 また、当時は「呼寄せ」が一般的で、先発隊として生活基盤を整え、親戚や同じ町からさらにに移民を呼寄せます。祖父も同じ沼津からも多くの人を呼び寄せています。
 当時パナマに住む日本人は、雑貨商店、理髪店、クリーニング屋を営む人が多かったそうです。隣の床屋のお爺ちゃんはパナマで床屋修行をしたと言っていました。
 祖母も呼び寄せられパナマまで25日の船旅。途中、ハワイ島のヒロ、ロサンゼルスを経由してバルボア港へ入っています。
 行きは日本から野菜の種などを持っていき、帰国の際は鉄屑を大量に持ってきて船賃を稼いだようです。商魂たくましかった人達です。
 昭和13年(1938年)に二人とも帰国しますが、祖父は出稼ぎでは成功したようです。
 その要因はなんと、ロテリア(宝くじ)。中南米では宝くじや賭け事が盛んです。
 祖母が無理やり買わされたと言っていた宝くじ。なんと1等と3等が当たり、当時のお金で3千円を手に入れたそうです。
 今の金額でどのくらいか分かりませんが、土地を購入して家を建てて、まだお釣りがあったと言っていました。
 祖母はパナマに住んでいた頃の住所を覚えており、私がパナマを訪問した際に行ってみました。
 タクシーの運ちゃんが「危ないから、降りないほうが良いよ」とアドバイスしてくれて、車の中から見ただけでしたが、旧市街の真ん中あたり、いまは貧しい人達がたくさん住んでいる地域でした。
 海が近くて住みやすそうな地区で「ここで漁師をしていたのか」と、感慨に耽りました。
 そのまま現地に残った親類等は、第二次世界大戦を経てブラジルやベネズエラに再移住をしています。ベネズエラの親戚がいる周辺地区では、沼津弁が正式な日本語として採用されています。
 昔聞いた懐かしい言葉がまだ海外では残っています。


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南米コロンビアへ

 92年、大学一年の12月に山岳部同期だった野口と二人で南米のアコンカグアへ遠征に行くことになった。私にとってはこれが初めての海外旅行となった。
 アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに着いたのは日曜日、国内空港のAeroparqueの前にはLa Plata川が広がっており、河原では家族連れがバーベキューを楽しんでいた。ヨーロッパのような町並みとのんびりした雰囲気がとても新鮮でうらやましかった。
 ここから、一度は南米で生活をしてみたいという思いが強くなっていった。そして大学3年(1995年)の1月。このまま卒業してしまうのは惜しいと考え、急遽、南米への道を探し始めることになる。
 青年海外協力隊の説明会や、開発青年(現日系青年ボランティア)の説明会等に行ってみるも、特に教えることができる技術は無く、体よく断られてしまった。そんなときに、野口から日本の在外公館には在外公館派遣員という制度があるよと教えられ、急遽スペイン語の勉強を目的にスペインに留学することにした。
 大学は一芸入試で入ったので勉強はしてこなかったが、スペインでの一年間は今までで一番勉強をした年だった。
 帰国して、さっそく在外公館派遣員に申込をしたが、そのときのスペイン語圏はバルセロナ領事館、コロンビア大使館、ヴェネズエラ大使館の3ポストしか募集が無く、門は非常に狭いものだった。試験を受けてみたが、自分ではまったく自信が無く落ちたと思い込んでいた。
 アパートで塞ぎこんでいたところへ、「コロンビアに合格ですが、行きますか?」との電話が入った。親戚のいるヴェネズエラを第一希望としていたが、そのときはコロンビアがどこにあるのか、どんな国なのかも知る由もなく「はい、行きます」と答えていた。
 派遣前研修を受け、大学を再度休学し、1996年の9月から2年半の間、在コロンビア日本国大使館で派遣員として勤務することができた。これが初めての海外長期滞在となる。
 赴任前はどんな国か知らなかったが、「ゲリラ」、「麻薬」、「」マフィア」、「テロ」などの負の情報しか見つからない。「まあ、4,000万人が生活しているのだから行けば何とかなるだろう」と考え、スーツケース一つを持って着任した。
 実際に生活していると、とても良い国ですっかり気に入ってしまった。任期を終えて帰国し、就職活動に入るが、企業を選ぶ基準は「中南米で働けること」が第一条件となっていた。

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再びコロンビアへ

 南米と関われる仕事を見つけて今の会社に入った。最初の部署は南米課でコロンビア、エクアドル、ヴェネズエラの3カ国を担当することになった。年に数回は出張でこれら国を訪問する機会を得ることができた。
 次の部署は、名古屋の国内支部。ここでは、中南米からの出稼ぎ者が多く、国内転勤なら是非、名古屋に行きたいと考えていた。実際に仕事でも海外移住や出稼ぎ者との関わりもあり、とても満足した仕事ができた。
 そしてついに海外転勤となり、赴任先はコロンビア。念願の夢が叶い再びこの血に戻ってくることができた。
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