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職場のメルマがに書いた記事の転載です。
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シリーズ「多文化共生と日系人」

〜第3回 ハワイ・アメリカから中南米へ〜

 前回、次回はアフリカへ渡った人をと書きましたが、予定を変更しました。

 1885年にハワイへ初めて契約移民が渡ってから、多くの日本人が海を渡りハワイやアメリカ本土へ向かいました。米国本土ではこれに伴って、日本人が増えるのと同時に、現地での排日気運も高まって行き、地域で社会問題が発生してきます。

 1907年3月、ルーズベルト米国大統領は、ハワイ・メキシコ・カナダからの日本人の転航移民を禁止しました。これを受け、日本政府は1908年、日米紳士協約を米国政府と結び米国への移民が終わりを迎えます。
 米国への移民が禁止されると、ペルーやブラジルなどの中南米に行き先が変わって行きます。

 時代は飛んで、昭和2年(1927年)静岡県沼津市に我入道という漁師町から、夢を求めて中米のパナマに出稼ぎに向かった31歳の漁師がいました。
 それが私の祖父。新一です。
 日本で漁業を営んでいた彼は、パナマでも漁業に従事し日本の漁業技術を用いて、当時開通したばかりのパナマ運河を航行する船や米国軍関係者等へ魚を販売していました。
 また、当時は「呼寄せ」が一般的で、先発隊として生活基盤を整え、親戚や同じ町からさらにに移民を呼寄せます。
 祖父も同じ沼津からも多くの人を呼び寄せています。

 当時パナマに住む日本人は、商店、理髪店、クリーニング屋を営む人が多かったそうです。隣の床屋のお爺ちゃんはパナマで床屋修行をしたと言っていました。
 祖母も呼び寄せられパナマまで25日の船旅。途中、ハワイ島のヒロ、ロサンゼルスを経由してバルボア港へ入っています。
 行きは日本から野菜の種などを持っていき、帰国の際は鉄屑を大量に持ってきて船賃を稼いだようです。商魂たくましかった人達です。

 昭和13年(1938年)に帰国しますが、祖父は出稼ぎでは成功したようです。
 その要因はなんと、ロテリア(宝くじ)。中南米では宝くじや賭け事が盛んです。
 祖母が無理やり買わされたと言っていた宝くじ。なんと1等と3等が当たり、当時のお金で3千円を手に入れたそうです。
 今の金額でどのくらいか分かりませんが、土地と家を建てて、まだお釣りがあったと言っていました。

 祖母はパナマに住んでいた頃の住所を覚えており、私がパナマを訪問した際に行ってみました。
 タクシーの運ちゃんが「危ないから、降りないほうが良いよ」とアドバイスしてくれて、車の中から見ただけでしたが、旧市街の真ん中あたり、いまは貧しい人達がたくさん住んでいる地域でした。
 海が近くて住みやすそうな地区で「ここで漁師をしていたのか」と、感慨に耽りました。

 そのまま現地に残った親類等は、第二次世界大戦を経てブラジルやベネズエラに再移住をしています。ベネズエラの親戚がいる周辺地区では、沼津弁が正式な日本語として採用されています。
 昔聞いた懐かしい言葉がまだ海外では残っています。

 パナマからは2度ほど日本人が消えています。第二次大戦が始まると敵性国の住民はカリフォルニア等の強制収容所へ入れられます。
 次回はこのお話もしたいと思います。

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