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シリーズ「多文化共生と日系人」

〜第4回 第二次世界大戦と日系人〜

 さて、今月もやってきました。連載特集。
 前回は、戦前にパナマから引き上げて来た私の祖父母の話をしました。
 そのまま、パナマに残った親戚もいました。太平洋戦争が始まり、海外に在住する日本人達はどんな運命をたどったのでしょうか。

 1941年(昭和16年)に日本はハワイ真珠湾を攻撃し、米国と戦端を開きます。これをきっかけに中南米の国々でも、日本との国交断絶、対日宣戦布告をする国が出てきます。
 特に、パナマは海運の要衝であり、戦略上も重要な位置を占めており、当時から米軍が駐留をしていました。
 太平洋戦争前も、私の祖父などは米軍に魚を売っていたと言います。

 戦争が始まり、対日宣戦布告がなされるとパナマの日本人は収容所に連行されてしまいます。

 一部は、現地の信頼できる人や中立国の大使館等に資産を預けれた人もいたようですが、多くの人たちは資産凍結・没収されてしまいます。
 当初は、国内の収容所等に隔離されていましたがそのうち、カリフォルニアの収容所に移送されます。ここには、ペルーなどからも日系人が移送されてきたそうです。

 戦争が終わると、米国に移送されていた日系人達も解放されますが、多くの国では努力して作った資産は没収されてしまいました。
 特に、パナマでは日本人は雑貨商、クリーニング、理髪店等のサービス業を営む人が多く、農業のように固定資産を持っていませんでした。
ゼロからやり直しになってしまったそうです。
 静岡県の沼津からパナマに出かけていた人は、戦争が終わるとブラジルやベネズエラに再移住をし、再び、生活基盤を作るところから始めていきます。ベネズエラに渡った親戚は、再び雑貨商を始めて現在ではチェーン展開をしています。
 また、ブラジルなどでは、ドラマ「ハルとナツ」で紹介されたように、日系人が「勝ち組、負け組み」に分かれて争いが起こったりしています。

 日本は戦争で焼け野原になってしまいましたが、復興には中南米の日系人から多くの支援を頂いたことを忘れてはいけませんね。
 遠く離れていても、早い祖国の復興を願い、食料や衣料品が海外の日系社会から送られてきました。
***書籍紹介***
 天野芳太郎『わが囚われの記-第二次大戦と中南米移民-』中公文庫

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