ホームページロゴ ヘッダー画像
職場のメルマがに書いた記事の転載です。
南米写真

中南米の写真はこちらから。

コロンビアの食べ物

コロンビアのお花

Bogotaの風景

OUTDOOR

Campへ戻る

シリーズ「多文化共生と日系人」

〜第2回 幕末の夜明け〜榎本武揚と墨西哥移民団〜

 さて、前回は江戸時代までのお話でした。今回は幕末から明治にかけてお話します。

 メキシコへの初の移住グループとなった榎本殖民団に、20名もの三河(愛知県)出身者がいました。既に100年以上前に三河からメキシコに渡った人達がいたんですよ。

 イヤーござったペリーさん。1853年にペリーが来日し日本に開国を迫ります。
 この背景には太平洋で鯨漁を行なっていた米国捕鯨船団の補給基地として日本が必要だったようです。  ペリーの黒船に日本は激震し、この後、時代は一気に開国に向かいす。

 幕府が1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)を解くと、官約移民としてハワイ王国への砂糖きびプランテーションへの就労に始まり、アメリカ、カナダといった北米への移住が始まります。
 官約労働移民の多くは3年間の契約の後もハワイに残りましたが、日本へ帰国した人やアメリカ本土へ渡る人も大勢いました。

 また、幕府や各藩からは、多くの人材が海外留学に出かけます。その中には、後に外務大臣を勤める榎本武揚もいました。榎本武揚はオランダに留学し、航海術等を学んで帰ります。
 帰国後、彼は、佐幕派として北海道五稜郭まで戦い抜き、投獄されますが、彼の能力を見出した討幕派により、北海道開拓使として官職を得て新政府の役人として活躍していきます。

 海外で学び、北海道開拓を経験した榎本は、外国へ移民団を送ることを考えます。
 こうして生まれたのが「榎本殖民日墨協働会社」です。

 1897年に35名の移民団がメキシコに向けて横浜港を出航しました。
 これは、日本から中南米諸国へ向かった最初の移民団となります。
 メンバーは自由移民(独立移住者)6名、契約移民28名と監督者から構成されています。

 これまでハワイ島へ渡っていた多くは広島県、山口県、和歌山県などから出ていましたが、榎本移民団の監督者であった草鹿砥寅二が三河の出身だったことから、彼の郷里を中心に募集が行われ、この契約移民のうち、20名は愛知県出身者で占められました。
 初めて、メキシコに向かった移民団が愛知県と関わりがあったこと、皆さんはご存知でしたか?
 その後、移民団は資金不足で「榎本殖民日墨協働会社」は解散。
 移住者達はメキシコ革命に巻き込まれたり、土地問題が発生したり、まさに激動の時代を生き抜きます。様々な苦労を重ねながら現地で生活基盤を強固にしていきます。
 1997年には、彼らがメキシコに渡り、100周年を迎え日系移住100周年事業が盛大に行われました。
 詳しく知りたい方は、後書きの書籍を参考にしてください。
 当時の日本国内は、明治新政府の富国強兵政策に伴って増税が実施され、余剰人口や経済不況などの問題が深刻化していました。
 農村の若者たちは、家族の窮状を救うために出稼ぎに出ていったのです。
 また、官約移民のみならず多くの民間移民会社が設立され、中にはだまされたり、甘い夢を抱えて海外へ出た人たちも多くいたようです。

 当時は、ハワイやアメリカへ渡る人たちも多くいましたが、アメリカで日本からの移民が禁止されると、ペルーやブラジルなどの中南米に行き先が変わって行きます。
 また、最初は数年間の出稼ぎで海外渡航を考えていた人が多くいましたが、生活基盤が整ってくると、家族を呼び寄せたりして定住する人達が増えていきました。
 こうして、新時代の移民は、ハワイ・アメリカから中南米へ、短期の出稼ぎから定住移民へと移り変わって行きます。
 次回は、アフリカへ出かけた人たちを追ってみたいと思います。

Topへ戻る