思えば遠くへ来たものだ・・・


私と登山の出会い・・・



高校山岳部時代

 高校山岳部も大学山岳部も部活に入ったとき、いつも新人は私一人だった。高校では、その後に多くの人が入ってくれたが、ガタイのデカイ先輩に囲まれた新人一人というのはとても心細かった。
そもそも何故、高校で山岳部に入ったのか。それは、小学生のときからボーイスカウトに入っていてキャンプや野外活動が大好きな子供になっていたからだと思う。
 高校に入ったときに、部勧誘をやっていて除いてみた山岳部。いきなり先輩に「山岳部に入るとキャンプが沢山できるよ。」といわれ、そのまま入ってしまった。
しかし・・・、私が入った当時の山岳部は停学中の先輩が複数人、留年した先輩もいた。いきなり、麻雀に誘われたり、ディスコに誘われたり、新人歓迎ではお酒が出てきたりと、そんな場所だった。
 それでも、大きな荷物を背負って歩く登山や、キャンプは楽しかった。そして6月頃だったと思う。登山にもインターハイが有るのを知った。その後、同級生が何名か入ったが私が1年生では古株で体力も有ったからだろう、3年生の先輩2名、唯一の2年生の先輩、私の4名でチームを組んで、インターハイの県予選に出場することになった。
 初めてのインターハイで競技登山って何を競うのかもわからぬまま参加した。
担当は確か、1年生のときは設営担当をしたと思う。
 結果は覚えていない。唯一覚えていることは、炎天下の登山で、お水は先輩達優先で自分は殆ど飲むことができず、下山後に3Lの水を飲んで、カキ氷を食べて、シェイクを飲んだ記憶がある。

 丁度、自分が高校3年生になる平成3年にインターハイの会場が静岡県ということがあり、それ以降、「強化合宿」と称した様々な合宿があった。
 「強化合宿」が楽しかったのは、普段の山行は自分の学校だけだが、「強化合宿」になると県内のいろいろな学校の山岳部の人達と登れることだった。
 楽しいキャンプがやりたくて入った山岳部。その他の同期も楽しく山が登れればそれで良いのになぁと思う人も多かった。
 この「強化合宿」ではマラソン大会や歩荷(重たい荷物を背負っての歩行)のタイムトライアルもあり、なぜか負けることが悔しく、いつの間にか周りの同期を説得し、インターハイを目指すようになっていった。
 普段のトレーニングは、筋力トレーニングのほか、歩荷を背負ってのマラソン、普通のマラソンなども一生懸命やった。しかし、競技だけではなく、普段の山行は山を思いっきり楽しむことを目指した。マウンテン・バイクを背負って山に登ったり、合宿以外の山行もとても楽しかったと記憶している。
 2年生の時には、唯一の先輩と同級生3名のチームで、インターハイの県予選に参加、結果は確か4位ぐらいだったと思う。何時も上位に入る学校は決まっていて、当時強かったのは、富士宮西校、静岡東校、下田北校などだったと思う。
 最終年の3年生の時には、ついに県大会で優勝することができた。そのまま、初めて全国大会に出場することになった。
 開催県だったこともあり、全国大会のコースは何度か歩いており、地の利を十分生かせた。また、全国大会は47校全てが一緒に歩くために、体力点をアピールするために、4名が歩調を合わせて歩くことまで行った。
 これが功を奏してか、初出場で初優勝を手に入れることができた。めちゃくちゃ嬉しかった。努力してきた甲斐が報われたと思った瞬間だった。しかし、ゆくゆく冷静に考えてみると、登山大会だと地元開催の場合、やはり地元の学校が一番有利なのではないだろうか、そう考えると優勝は毎年開催県持ち回りといった感じだろうか・・・

こんな、感じで高校生のときは競技登山を中心に山登りをしてきた感じだが、競技登山をやって良かったと思えることは、採点が正しく「知力」、「体力」、「生活技術」だったこともあり、生活技術や歩行技術などの基礎をしっかりと身につけることができたことではないだろうか。

 高校は日大付属校に行っていたのにも関わらず、関連大学への進学は難しいといわれ、真剣に自衛官になることを考えていた。
 インターハイでは陸自の支援を受けたり、ボーイスカウトで演習場に泊まったり、御殿場の東富士演習場が近いこともあり、総合火力演習を見に行ったりと自衛隊は身近な存在だった。また、体力に自身が有った自分には天職だと感じていた高校時代。フランス外人部隊にも真剣にあこがれていた頃だった。

 人生はどこで方向転換するかわからない。山岳部同期が取り寄せた募集要項をもらい、そのまま、「一芸一能入試」で大学を受験し、受かってしまった。
 さらに幸運なことに、入試は10月に終わってしまったので、これまでの登山の総括の意味で、周りの同期が受験勉強をしているのを横目に、何度か単独行に挑戦をしたのもこの時期だ。運転免許も取りたかったが、早生まれのため仮免許は誕生日にならないともらえず、路上教習にも出れなかった。
 初めての単独行は、高校時代に何度も登った静岡の竜爪山だった。いつもはタイムトライアルで直ぐに通過してしまう山頂にテントを張って一人で夜景を楽しみ、ゆっくりとコーヒーを飲んだことを今も覚えている。そこから、真富士山まで縦走したが人が通った痕跡が無く、激しい藪こぎに心細くなった。
 その後は、愛鷹山縦走などをやったが、丁度そのときハマッテいた新田次郎の小説で愛鷹山の位牌岳・鋸岳が舞台となったサスペンスを読んでしまい、暗く雨天になったこともあり、初めて山が怖いと思った。それでも、初めての単独行2泊3日に自信をつけたことを覚えている。


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大学山岳部時代
 大学では、「一芸一能」で入ったからには山岳部に入らなければいけないものだと思い込んでおり、入学式の次の日に部室の門をたたいていた。
 まだ、新人勧誘は始まっておらず、翌週から同期の学生が楽しそうにしているところを、一生懸命に新人勧誘を行うハメになってしまった。
 しばらくして、同じ登山の「一芸入試」で入学した学生がいる事を知り、何とか勧誘しなければまた新入生は自分一人で終わってしまうと思い、あせっていた。しかし、もう一人の学生野口健は、テレビカメラと一緒に部室に来て、入部することになった。
 野口も私のことを聞いていたらしく、初めて会うなり「お前が秋山か、一緒にアコンに行こうよ。」と言われ、「良いよ」と答えていた。どこかまだ行った事の無い日本の山かと思っていたが、それが南米最高峰のアコンカグアだったとは、そのときは知りようも無かった。
 大学山岳部では先輩にやはり登山で入学した先輩が2年生に1名、四年の先輩1名、3年の先輩2名、2年の先輩3名と小さな所帯だった。その後、同級生が入ったりして多少の人数変動はあったものの、こじんまりとした山岳部でとても居心地が良かった。さらに、3年の先輩は2名とも「一芸入試」で入学した先輩で、とても個性豊かな大学だと感じた。面白いことに、1年生から4年生まで1970年生まれがそろっていたのも、「さすが大学だ・・・」と妙な関心をしたことを覚えている。
 登山で入った先輩は、社会人山岳会でも登っていたりしていこの先輩にフリークライミングやロック・クライミングをイロハから教えてもらった。
 個人的には縦走が好きだが、この時期に登山の幅が広がったと思う。また、大学では「一芸活動」は公的活動と認めてくれるので、授業を休んで大手を振って山登りにいけるのがとても嬉しかった。
 大学山岳部も先輩には経験者は少数で、大学から始めた人が多かった。入部する前には植村直巳の本に出てくるように、ある意味の「怖さ」を頂いていたが、まったくそんなことはなかった。また、OBの先輩がコーチや監督として登山についてくれるときもあり、いろいろな技術を学ぶことができた。
 大学1年の夏休み、初めて単独の長期縦走を計画した。大好きな南アルプスを北岳から上河内岳まで縦走することにした。まだ、体力に自信もあり食料も乾燥食では無く生食を多く持っていった。当時の9月の南アは人に出会わない日もあり、これでさらに単独行の自信が付いたようだった。
 92年、1年生の冬休み、いよいよ野口と二人でアコンカグアへ行くこととなった。海外旅行はこれが初めてで何をどうして良いのかもわからないままだった。経由地でよったカナダでは12月の大雪で空港が閉鎖になってしまい、トロントの空港で右往左往。言葉は通じないし、カナダ・ドルも持っていなくてどうしようか困ってしまった。生まれて初めてクレジット・カードを使ったがボーイが何を言っているのかわからなかった。結局、チップをくれとのことだと後で理解できた。
 いろいろ有ったが、何とかアコンカグアも18歳で登頂し、無事に帰国した。その後は、米国に半年留学し、スキーやスノーボードなど新しいスポーツにも挑戦したり、ヨーロッパアルプスや南極のヴィンソンマッシフ登頂などもした。
 海外登山はそれはそれで面白いが、やはり、四季により景色が移りかわる日本の自然が大好きだ。季節によって木の実や山菜などが取れるのも良い。
振り返ってみると、初めての海外が南米のアコンカグア、南極登山もチリ経由、この辺でも中南米との関係は運命的なものだったのだろうと思う。

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社会人になってから
 幸運なことに、従業員数が1,200名という大きな会社に入り職場に”カメラ・山岳部”という部があった。これまでカメラにも興味はあったがしっかりと教えてもらったことが無かった。”カメラ”と”山岳”とあっては入らずにはいられない。もちろん入社して直ぐにカメラ・山岳部(通称;カメサン)に入った。
 職場山岳部の良いところは、普段知り合うことの無い人達と山を通して知り合えることだろうか。また、家族連れで登ったりと、これまでとは違う登り方がある。
 登山経験もいろいろだが、いつまでも続けられる趣味として気のあった仲間達と登るのはまた楽しい。時には、厳しい登山もしたいが体力とも相談しながら、ずっと続けて行きたい。


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競技登山とは・・・
競技登山について、説明しましょう。
高校総体(インターハイ)は、4名で1チームの構成で競われる。
 体力、読図、登山知識、生活技術などの総合点で競われる。毎日、テント場に付くと、設営2名、調理1名、天気図1名に分かれて、時間を競い生活技術が採点される。
設営は2名一組で笛の音で一斉にテントの設営が始まる。1分、3分が経ったところで一旦中止、そこまでの進捗やいかに綺麗に設営するかが採点される。
 天気図はNHKの気象通報のラジオを聴きながら天気図を作成し、明日の天気を予想する。天気図の描き方が採点されると共に、天気予報も採点の対象になる。
 調理は、これまた、各校が横一列に並び、笛の合図と共に一斉に夕食の準備に入る。いかに効率的に早く炊事ができるかを見られると共に、炊き上がったご飯の味、また献立の栄養状況まで採点の対象になる。生ものの保存方法も採点されたと思う。僕らの得意技は味噌漬けにしたお肉を使ったトン汁だった。
 また、体力点はそれぞれが規定重量を満たしていることが前提で、スピードを競うと共に、ところどころに審査員が隠れていて、歩行技術やチームワークなども採点された。早くなければいけないが、走ることはマナー違反で減点されてしまう。
 ようは、山に入ってから下山するまでいたるところで監視され採点されるといった感じだろう。
 これが、国体になるとただ単に「体力」だけの勝負になる。規定重量を背負って山の中を走りまくり、いかに速く登り、早く降りるかが勝負になる。



【Wikipediaにも載っていたので引用します。】
競技としての登山 高校総体においては、競技の一環として登山を取り入れている。体力や装備、あるいは天気図に関する技能・知識や、高山植物、応急処置の方法等を点数として、審査員がそれらの達成度を計数し、高校ごとに順位を決定する。
隊列に遅れず登頂を目指すのも体力点として高得点ではあるが、他にもマナーや態度、知識や服装等にも気を遣う必要がある。4日間をテントで過ごし、食事も寝床もすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつである。
更に、地方大会では実力の優劣をはっきりとさせるために重量規制があり、現段階では4人で60kgと言う規定がある。その60kgに、飲料として使用する分の水、怪我の治療などとして使用するために綺麗な水などを要するため、実質70kgにも75kgにも及ぶことなどが多々あるという。

また、国体においても山岳競技があり、縦走競技とクライミング競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコース完走する時間を競う。クライミング競技は、人工壁をフリークライミングのスタイルで登り、到達高度を競う。

他にも岩を登る行為の派生競技としてフリークライミング、山道を走ってその順位を争うトレールランニング等の競技がある。いずれも、競技とは言え山や岩場でのスポーツになるため、安全対策や体調管理に十分に注意する必要がある。

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*すべて作者の独断で書かれています。良い子は真似しないでね。